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武者小路千家 久米てる(翠光)と岡田茂吉・よ志

論考
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こんにちは、HIROROです。

今回は「武者小路千家 久米てる(翠光)と岡田茂吉・よ志」というテーマにしました。
先日、メンバーの方に『地上天国』(1962年2・3月合併号「二代様をお偲びする」)を貸して頂きまして、
その中に武者小路千家や久米てる氏に関する記事が多く出てきましたので取り上げてみました。

まず、久米てる氏ですが、東京瓦斯社長を務めた久米良作氏(1868~1934年)の妻で、
(『人事興信録』データベースでも確認できました)
久米邸(自楽庵)は武者小路千家の東京の稽古場として重要な拠点でした。
自楽庵には京都の久田家から移された茶室・半床庵や、
愈好斎が作った茶室・雲龍軒があり、現在は官休庵東京出張所となっています。

末宗廣編『茶人系譜(新編)』には愈好斎の弟子として「久米翠光」という人物が見られます。
この久米翠光氏が久米てる氏と同一人物であると以前武者小路千家の方に教えて頂きました。
また久米てる氏は二代教主・よ志の直接の先生で、愈好斎宗匠が来られない時に
お茶の指導をされたり、女性奉仕者のお稽古も行っていたと伝わります。

(『茶人系譜(新編)』)164頁より引用)

もともと『景行』(メシアニカゼネラル、1965年)に久米てる氏の
寄稿文が掲載されていることは知っていたのですが、
今回の『地上天国』(1962年2・3月合併号)に寄せたものは初めて見ました。
両方とも全文を本ブログの末尾に付しておきます(※長いので適宜ご参照下さい)。

岡田よ志が亡くなる前日に世界救世教に入信したというエピソードは今回初めて知りました。
『地上天国』の巻頭写真には岡田よ志(二代様)とともに久米てる氏が写っています。

(『地上天国』(1962年2・3月合併号)巻頭部より引用)

また別の機会に世界救世教と武者小路千家との関係を解説したいと考えていますので、
今後とも「岡田茂吉と茶道」につきましても宜しくお願いします。

『景行』(メシアニカゼネラル、1965年)「無言のお教え」P138~141
初めてお伺いしました時、明主様はお花をお活けになっておられました。
そして、床の間の掛物を取り換えたりしてお支度をしておられました。
これは最初の時だけでなく、その後いつ伺っても明主様みずから花を活けたり、
掛物を取り換えたりしてご用意されていました。
そして、『きょうは、これこれの道具が手にはいったから、
これで稽古してほしい。ゆっくり鑑賞してほしい』と言われました。
いつだったか二代様から、仁清の重茶碗でお茶を点て、
明主様に差上げてほしいと言われたことがありました。
その時は先代官休庵宗匠先生もいらしたので、
いろいろお話を伺いながら召上がっていただきましたが、
その茶碗のお取扱いの丁寧さには、びっくりいたしました。
この時には、お茶を習っている私の方がはずかしく思ったくらいで、
明主様はお茶の心得がなくても、ちゃんと知っておられるのです。
私も明主様にお出しするときは、人一倍気を使い、先代宗匠先生にも
よく心得を教えていただいてお出しするわけですが、
明主様はたいていお昼をお召上がりになったあとで一服召上がるのが普通でした。
そして召上がるとすぐ引込んでしまわれます。
そんなわけで、明主様はお点前はなさいませんで、私どもが伺うと、
お茶室の方へ挨拶程度に、ちょっとお顔を出されるくらいでしたが、
お話が非常にお好きでいらっしゃいましたし、先代宗匠先生も、
歴史がとてもお精しく、特に墨蹟に精通でしたから、明主様はよく
宗匠先生から歴史のお話を興味深く聞いておられたようでございます。
私も明主様からいろいろなことを教えていただきました。
道具の扱いなどでも、私が申し上げなくてもすべてご存じで、
その扱い方を拝見して、丁寧に心をこめて扱われておられるそのご態度にも、
お心が現われていて、”よく出来たお方だなあ”と感心したこともあります。
そして、私が他の所で釜を懸ける場合など、お話申し上げますと、
二代様とご相談なされ、『きみはどれがいいと思うかね』と言ってご心配下され、
気持よくいつでも拝借しておりました。さらに懇切丁寧に、この花器にはこの花が、
この掛物がと細かいところまでお教え下さいました。なんだかありがたすぎて、
“こんなにまでして拝借していいものかしら”と思ったくらいです。
普通でしたら、何百何万もする高価な品物ですから、あまり貸したがらないのが
ほんとうですのに、そんなことは少しも構わず、いたってキサクに貸して下さいました。
しかも、そういう品物を拝借します時は、ちゃんとお使いの方に私の家まで
持たせて下さいました。そのご親切さといったら普通ではございませんでした。
普通の方では、あそこまでなすって下さいません。
二代様も明主様も徹底的にご信頼しておられ、なんでもご相談して決めておられました。
はたで拝見していても、あれほど仲のよいご夫婦は、そうざらにないと、
いつも感心しておりました。たとえば、そんなことはご主人にご相談しなくても、
二代様だけでお決めになってもいいようなことでも、必ず「一度先生に伺ってから」と、
なんでも明主様とご相談になっておられました。
ですから、おふたりのあいだには嘘というものが少しもなくて、
“ほんとうにいいご夫婦だなあ”と羨ましく思っていました。
明主様から私が無言のうちにお教えいただきましたひとつの例として、
こんなことがありました。私が碧雲荘へ伺っている時分、やはり二代様の
長唄の先生として吉住小三郎先生(現慈恭氏)も出入りしておられましたが、
ある時ご一緒になった時がございます。私が伺う時は、たいてい朝早く伺うのですが、
いつもそのご主人である明主様に、ご挨拶申し上げてからお稽古をはじめるのですが、
ちょうど吉住先生とご一緒になった時は、初めて二代様からご紹介いただき、
先生もご一緒に稽古をはじめられましたので、ついうっかりして、
明主様のご挨拶をし忘れてしまいました。そのうち明主様がお稽古の席へ
ちょっと顔を出されましたが、いつもに似合わず、とてもご機嫌が悪かったのです。
私はどうしてだろうかと考えてみましたが、理由がわかりませんでした。
そのうち、ハタと、”そうだ、もしかしたらご挨拶しなかったためではないか”と
気づきまして、早速明主様のところへ伺い、「大変申し遅れてご挨拶もせず、
お稽古をさせていただいておりますが、今日はありがとうございます」と
申し上げますと、”ああ、そこへ気がついてくれたか”というお顔つきをされ、
それから一ぺんにニコニコしてふだんの明主様になって下さいました。
そういう、道でない、そこのご主人にご挨拶もせずにいるということは、
人間のクズだと自分でも気づいたわけですが、ひと言の注意も受けなかったのですが、
やはり間違ったことは間違ったこととして、無言のうちに教えておられるわけで、
こういう人間としてのあり方について、ずいぶん教えていただきました。
その時は、私は改めてお詫びに行ったのです。そして、「申し訳ありません。
大変失礼なことをいたしました」と申し上げると、明主様は目にいっぱいの涙をためて、
『わかっていただけましたら、もういいですよ』とひと言おっしゃられ、
それはそれは慈愛のこもった眼差しで、”気をつけなさい”と言外に言っておられる
ようなお眼でした。その時私は怖いというのではなしに、慈愛深い眼の輝きに
圧倒されてしまいました。あとで二代様にも、「私の不行届きで大変失礼な
ことをしてしまいましたので、あなたからもよくお詫びして下さい」と申しますと、
「なにいいのよ、わかればそれでいいんだから」と言われましたが、
すんでしまったらそんなことは少しも意に介されず、なんておやさしい方だろうと
思えるほど、いつもの明主様になっておられました。
長いあいだのおつき合いで、ああいうお立場におられて、信者さんには
いろいろ教えておられても、私には一度も信仰の話はされませんでした。
しかし、そのご生活態度を見ていて、こちらが教えられること、また自然に
信仰的感化を受けていくことなど、やはり明主様は”お偉い方だなあ”と、
つくづくいまになって思っております。(茶道師匠 久米てるさん)

『地上天国』(1962年2・3月合併号)「お茶を仲立ちとして」P110~111
一月二十五日の早朝、二代さまご昇天のおしらしを受けましたときは、
あまりに意外な出来事に、胸もつぶれ、眼の先きがまっくらになったような気持でした。
それからお通夜、御昇天祭とあわただしい数日を過ごしましたが、
やや落着きを取りもどしたこの頃になりましても、いまだに私には二代さまが
お亡くなりになったなど真実のようには思われません。今にも熱海から
お電話があって、「近いうちに一度来て頂きたい」そんなお声が聞こえて
来るような気がします。今夜は亡き御方さまの想い出を書き記そうと
急い立ちましたが、悲しみが先になって思うように筆が進みません。
私が二代さまにお近づきを得ましたのは、たしか昭和十五年のことで、
奥様が官休庵の先代愈好斎宗匠についてお茶のお稽古を遊ばされたときからです。
宗匠のお稽古は一ト月に一回、時には二タ月に一回のこともありまして、
その間のお稽古をつなぐために、宗匠からのお申付けで、私が御殿へ
伺うことになりました。大体奥様は茶道の本義というものはよくご理解に
なっておられましたし、それまでにもお茶碗のお手造りもなさっておられ、
又陶器や古美術に対するご鑑賞に就いてもさすがに箱根美術館をお作りに
なりました先代御明主様とご趣味を一にせられ、中々高いお眼をもっておられました。
そんなお方でしたから、お茶のお稽古もご理解が早く、ご上達も一段と
お早かった訳です。そうしていつのお稽古も単なるお稽古としてでなく、
それが直ちにお茶事になるようなお心得構えで、お道具の選択や
お食事の用意などいろいろご趣向され、いつのお稽古日もそれこそ
楽しんで遊ばしました。お道具の選択ということは中々むずかしいものです、
季節と場合によって、用いられる器物にも適、不適があります。
誰しもこのことについては気苦労いたします。それがまたお茶の楽しい点でも
ありますが、奥様のご趣向になるお道具の選択は中々勝れたものをお持ちでした。
私どもはお点前に対する細かな手順や作法はご指導申し上げましたが、
その他の点では、却って奥様から教わることが多々ございました。
こんなことから、二代様とはお茶を仲立ちとして次第にお親しくして頂きました。
後になってご家庭向きのことや、時にはお買物のご相談にものるようになりました。
特に楽しかったことは、毎年二回、関西へご旅行のときなどご同伴したりして、
ひとしおご懇意して頂いたことです。爾来今日まで十五余年、いつも穏やかな
お人柄に接して、ほんとうに楽しく過ごしてまいりました。
しかしひと口に十五年と申しましても、その間には、あのいたましい戦争があったり、
また先代様がお逝くなりになり、公私共に忘れ難い出来事がございました。
奥様が二代様におなりになられる前後は色々とむずかしいこともあり、
ご苦労は一ト通りのことではないと思われましたが、いつも春のような
穏やかな態度で日々をお過しになっておられるのをみて心から、敬服いたした次第です。
それから最後に、いままでお道のことは何度も聞いてまいりましたが、
私は法華宗のことゆえ、お道に入ろうとは中々思いきれませんでしたが、
不思議なご縁と申しますか、ご昇天の前日御殿に上って、この時はじめて、
二代様に入信の決意を申し上げて手続きをして頂きました。
それだけにその翌日逝くなられましたことは、全く因縁話のようで、
二代様とのご縁の深さに心を打たれた次第でございます。
これではじめて来世へもこのご縁がつづいていくと思いますと、
何だか心安らぐ気持でございます。お茶ではじまり、入信で終ったことを
意義深く感じております。(官休庵東京代表)

イラスト:きーろ様(Twitter*@ki_ro_iroiro)

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