こんにちは、HIROROです。
前回から引き続き『サンデー毎日』の記事を取り上げます。
今回は昭和30年9月18号でして22~23ページと前回よりも分量は少ないですが、
刺激的な内容が多く盛り込まれています(笑)
小見出しだけを取り上げますと、
「分裂抗争の第一号」
「復帰を狙う元顧問」
「失脚した側近1号」
「奇怪・執事監禁事件」
「暗躍する護国団員」
「教団幹部派の言分」
「元巨頭は語らず」
などなど、物騒なワードが並んでいます。
この中で「失脚した側近1号」について見てみますと、
阿部豊氏は戦争中、商工省局長の地位を去って教団経営に参加した人。
茂吉氏の長女道子さんは同氏の甥阿部勇氏に嫁いでいる。
いわば岡田一家の縁続きでもあるので、教祖生前は側近一号として
威勢を振ったばかりでなく、二代さま内閣にも内大臣格の執事に理事、
箱根美術館理事長等要職を兼任して残留していた。
(中略)
なぜか茂吉氏は美術館運営については全然ノータッチだったといわれ、
代りに阿部氏の手元に美術品購入費として月々三百万円が手渡されていた。
昨年一月から十月まででも三千万円、他に教祖葬儀に集まった香奠中よりも
特別購入費として五百万円。ところが理事会が調べてみると、
購入費未払金が二千万円からあった。
当然、美術館経理について激しい追及がなされたが、阿部氏は言を
左右にして明答しないままにさる六月八日、詰腹を切らされ、
同時に執事、理事等、他の要職からも一切退くこととなった。
理事連中の先頭に立ったのが”教団の三木武吉”といわれる松井成勲顧問だった。
と、阿部豊氏が失脚した詳細が記されています。
この阿部豊(=阿部晴三)氏は『明主様と先達の人々』の中にも登場します。
兄の阿部晴三は、長らく商工省に勤務していたが、
後、官を辞して布教に従事、昭和二五年の法難事件以降は執事として教祖の側近に仕え、
箱根美術館完成後、財団法人東明美術保存会理事長等の要職を歴任、
昭和六〇年七月帰幽、八四歳であった。
(『明主様と先達の人々』P229より引用)
ちなみに日本の公務員は『職員録』という資料に氏名が記されています。
戦前のものは国立国会図書館デジタルコレクションでも公開されていまして、
特にこちらのページでは『職員録』について特集されていますので便利です。
ちょっとだけ調べましたら、阿部豊氏は昭和14年1月には鉱山局の製鉄課長事務官、
昭和14年7月には組織改編があったようで鉄鋼局の製鉄課長になり、
昭和15年2月まで確認できますが、次の昭和15年8月分から名前が無くなるため、
この頃に退官し世界救世教の専従となったと考えられます。
(『職員録』昭和15年2月1日現在、101/259コマより引用)
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