こんにちは、HIROROです。
今回は分派教団シリーズの10回目としまして、
救世真教さまの紹介を行います。
以前、一元化に関する記事を投稿しましたが、
一元化により分派離脱した教団の先駆けとなったのが、
この救世真教さま(旧・光映教会)です。
以前「岡田茂吉とビジネス」という記事でも紹介しましたが、
同教団を立ち上げた小野田松造氏は日大を中退後、秋田鉱山専門学校に入学、
内閣技術院の奉職を経て、1933年に東和鉱業に入社し鉱山技師として勤務していました。
その後1944年に岡田茂吉が経営する岡田鉱業所に転職し、森吉鉱山の所長を務めます。
(小野田松造氏、『新宗教教団・人物事典』(弘文堂、1996年)395頁より引用)
梅原正紀・水野義之『新宗教の底流をさぐる 秘儀と霊能の世界』(紀尾井書房、1980年)に
詳しく解説されているのですが、今回は要点のみを抜粋致します。
・戦中、小野田氏は妻の実家がある群馬県前橋市に疎開も仕事で秋田(森吉鉱山)と東京を往復
・入信後、坂井(多賀男か?)氏の指導を受けたが、岡田茂吉からの直接指導を受ける機会も得た
・戦後、秋田と熱海を往復する中、群馬にも立ち寄ったところ群馬の信者が家に集まってきた
・坂井の弟子である小川栄太郎氏が新潟布教を進めていたので、小川氏からの依頼で新潟での
信徒指導にも従事、1948年光陽会会長に就任
・岡田茂吉から群馬に力点を置くように命じられ1950年光映会会長に就任
・1960年岡田茂吉が夢枕に立ち聖地建設の指示を受け群馬県藤岡市に紫雲郷を設立
・一元化を巡り教団執行部と対立、1966年7月教団より役職を罷免
・1966年8月信徒総会を開き世界救世教からの離脱、「救世教会」を設立(後の救世真教)
・世界救世教との裁判中の1971年に小野田氏は帰幽、同年裁判は和解
またHIROROは未見ですが、
福田隆夫『有難い人になるようにー救世真教会長 新井三知夫ー』(浪速社、2003年)
という本もあるようでして、また入手できましたら岡田茂吉文庫で解説したいと思います。
(1)教団名称・法人番号
救世真教:2070005002909
(2)教団名称変遷
救世真教 ※変更なし
(3)教団代表歴代
(初代)小野田松造(1966年~1971年)
(2代)小野田明美(1971年~1977年)
(3代)新井三知夫(1978年~2002年)
(4代)新井光興(2003年~
(4)教団本部・聖地
神仙郷
(5)経典
『真鏡』
(6)新聞/会報
「道しるべ」
(7)美術施設
無し
(8)ホームページ
http://www.shinshuren.or.jp/orgdetail.php?id=6
【参考文献】
『新宗教事典』(弘文堂、1990年)
『新宗教教団・人物事典』(弘文堂、1996年)
『宗教年鑑』(文化庁、各年度)
拙稿「岡田茂吉没後の世界救世教と分派教団」(駒沢宗教学研究会『宗教学論集』第四十一輯)
【過去記事】
分派教団シリーズ①(全体と先行研究の整理)
分派教団シリーズ②(法人番号とホームページ)
分派教団シリーズ③(教団名称の変遷)
分派教団シリーズ④(教団代表者歴代)
分派教団シリーズ⑤(教団本部の呼称)
分派教団シリーズ⑥(教団の経典と新聞・会報)
分派教団シリーズ⑦(教団の美術施設)
分派教団シリーズ⑧(教団紹介:新健康協会)
分派教団シリーズ⑨(教団紹介:救世主教)
イラスト:きーろ様(Twitter*@ki_ro_iroiro)
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