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筒井紘一『美術商が語る思い出の数寄者』(@岡田茂吉文庫)

岡田茂吉文庫
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こんにちは、HIROROです。

今回は岡田茂吉文庫の第19弾としまして、
筒井紘一『美術商が語る思い出の数寄者』の解説を行います。

一見、岡田茂吉とは関連がなさそうなタイトルですが、
岡田茂吉だけではなく、その後のゆかりの人たちも出てくる良書ですので、
最後まで読んで頂けますとありがたいです。

まず本書は京都の茶道美術図書出版として有名な淡交社から刊行されました。
同社が発行する雑誌『淡交別冊』にて2007~2014年にかけて連載されました、
「対談・道具商が語る思い出の数寄者」をまとめたものとなります。

編者の筒井紘一氏は茶道史研究では超有名人です。
HIROROも所属しています茶書研究会の会長でもいらっしゃいます。

本書で着目すべきは次の3点です。

①田中昭光氏との対談の中で登場する吉岡庸治氏(岡田茂吉の次女・三弥子の夫、元MOA美術館館長)
②田中昭光氏との対談の中で登場する小山美秀子氏・小山弘子氏(神慈秀明会 会主・会長)
③飯田兼光氏との対談の中で登場する岡田茂吉

それでは順番に見ていきたいと思います。

まず①②の田中昭光氏は奈良の道具商「友明堂」の店主でして、
『野の花を活ける茶花十二か月』(文化出版局、1984年)という本を出しています。
この本の話に関連しまして、吉岡庸治氏との思い出が語られています。

 第一、あの本を出してからね、それまでも家族ぐるみで付き合いのあった
 MOA美術館の館長やった吉岡庸治先生が言うんです。
 「前髪下がりのお兄ちゃんと思うてたけど、あんなとこがあったんやな」て、
 見直してくれた(笑)。いや、風体や態度と合わんということですわ、
 どうも遊び人に見えるらしい、私は。
 (同書79~80頁より引用)

ちなみに吉岡庸治氏との写真も掲載されています。

(同書79頁より引用)

また茶花の話の関連しまして神慈秀明会の小山美秀子氏、小山弘子氏も出てきます。

 田中 あと、神慈秀明会の会主や会長とも親しくさせていただいていて、
  そこの幹部たちの勉強会に出張して、向こうの花入に活けさせていただいてます。
  花はみんな、信者さんたちが山に入って採って来てくれるさかい、ええ花なんですわ。
  活けるのが早いさかい、皆さん驚かれますがね。
 筒井 会主というのは・・・。
 田中 教団の創始者で、もう亡くなってしもたんやけど、小山美秀子さんが会主。
  会長はその娘さんで弘子さんですわ。。
 筒井 いつ頃からお知り合いなんですか。
 田中 会主とは昭和三十五年くらいからですわ。よく、うちの店に来て、
  半日くらいゆっくりしていかれましたわ。そんで、家内のつくる「庶民的なきつねうどん」が
  お気に入りで、いつも召し上がって帰られました。
 筒井 へえー、そうなんですか。
 田中 平成二年におやじの追善を兼ねた茶会をしましたが、会主と会長が揃って
  来てくれました。僕は、お茶をする時は、醍醐寺の門跡からもろうた腰衣を着けて、
  にわか坊主。こん時は、紙子を着て・・・。
 筒井 おもしろいねえ。よくお茶会や茶事はされるんですか。
 田中 少なくても年に一回くらいはしたいと思うてます。
 (同書81~82頁より引用)

この追善茶会の貴重な写真も掲載されています。

(同書81頁より引用)

さいごに、東京の「飯田兼光商店」の店主、飯田兼光氏との対談の中で
「岡田茂吉との思い出」が語られていますので、
長文となりますがこちらを取り上げたいと思います。

 筒井 では、畠山さんとのお話は後で聞くことにして、戦後、お付き合いのあった方に
  どのような方がいらっしゃいますか。
 飯田 いろいろといらっしゃいますが、強いて思い出深いのは、岡田茂吉さんですね。
 筒井 思い出話をお聞かせいただけますか。
 飯田 昭和二十三年、熱海の清水町に、できあがったばかりの面会施設、
  仮本部として使用されていた別院へ伺ったんです。そしたら、いいところへ来たと。
  岡田さんが「今度、水口町にある久邇宮家の元別荘を買い取って住まいと
  するのだが、何かいい名前はないか」と聞かれるから、「さあ、名前っていってもねぇ。
  ちょうど向こうから日が出てきて夕日が沈むところだから、碧雲亭とか碧雲荘に
  されたらどうですか」といったら、「それはよい名前だ」といってくださって、
  「碧雲荘」と名付けられたんですよ。それ以後、親しく出入りさせていただくことになったんです。
 筒井 それは、すごい。
 飯田 それから、昭和二十五年の四月十三日、午後五時過ぎから深夜にかけて、
  熱海で大火がありました。その時、私も熱海にいたんですよ。
 筒井 熱海駅に近い商店街の「仲見世通り」で夕刻から火災が発生して、
  店舗など七十戸が全焼したという、あれですか。
 飯田 いえいえ、その十日後に、「お宮の松」から少し西の海岸地帯にあたる
  市の中心部、千戸以上を全焼させた大火事です。その日、ちょうど私は熱海の
  吉原の先にある紙問屋のお客様のところへ行っていたんです。その帰り、
  岡田さんの「碧雲荘」へ伺ったんです。その日の夕刻に、あの大火事。
  清水町にある別院が今にも焼けそうな勢いでした。
 筒井 その時、どうされたんですか。
 飯田 岡田さんが「別院は飯田君に任せるから、みんなこの人のいうことを
  聞いて消火につとめろ」と言われたんです。そしたら「はい」と命令一下で、
  私の指示通りに。
 筒井 みんなが。
 飯田 ええ。当時そこにあった、もの凄く大きな池から水を汲んで、
  みんなでバケツリレーをして、ようやく消し止めたんです。そして、まわりの
  家々は瓦礫となったのに、不思議と別院だけが焼け残ったんです。
 筒井 あらっ、へぇー。
 飯田 ええ。それは岡田さん、信者の方々からは「メシヤ様、明主様」と
  呼ばれていましたが、その方のおかげだということが広まって、
  それでまた信者がうんと増えた。
 筒井 それはすごい。
 飯田 岡田さんは「これは君の手柄だ」と言ってくださって、私は随分かわいがられました。
 筒井 ところで、岡田茂吉さんという方は、どのような方ですか。
 飯田 背の小さい人でした。そして、とにかくドスのきいた声で話をされる方でした。
  そうそう、箱根に別荘がありました。それで困ったのは「君、たまには遊びにこい」と
  呼びつけられることでしたね。そして、お付きの人から「生きた鮎が届きました。
  明日の朝、明主様がご一緒に召し上がりたいとおっしゃるから来てください」と
  連絡が入るんです。箱根の強羅ですよ。強羅で朝ご飯を一緒に食べようというんですからね。
  東京駅を朝五時に出発する電車に、新橋の駅から五時五分に乗って行くんです。
 筒井 そうすると、小田原ですね。
 飯田 ええ。小田原駅で降りて、そこからタクシーに乗って行くと、どうにか朝ご飯の時間に間に合うんです。
 筒井 それはよほどの信頼ですよ。
 飯田 ええ。「一緒に食べるのはうまいのう」とかおっしゃってね、よく呼び出されましたよ。
  でも、こちらもちゃんと購入していただけそうな道具だけは用意していくんですけどね(笑)。
 筒井 そうですか。
 飯田 やはり偉いものですよね。いくら親しくしてくださっても、道具にはやかましかったですよ。
 筒井 随分とお求めいただかれたのですか。
 飯田 いろいろと入れさせていただきました。何を入れたかわからないぐらい。
  たとえば、『大正名器鑑』に載っているようなもの。
 筒井 凄いじゃないですか。随分儲かったんでしょうね。
 飯田 いえいえ。私は勤め人でしたから、給料分しか貰えないんで、いくらともない。
  道具屋の給料なんて、酷いもんでした。
 筒井 岡田さんが亡くなったのが昭和三十年と聞いていますから、飯田さんは三十歳ですね。
  その後も教団や箱根美術館、MOA美術館にお出入りされていたんですか。
 飯田 いいえ。その後はあまり熱海や箱根には行かなくなりました。
 (同書125~128頁)

碧雲荘と名付けたことや熱海の大火の際に陣頭指揮をとったことなど、
教団史にも出てこない貴重なエピソードが語られています。

今後もこうした一見関係がなさそうな書籍から
岡田茂吉に関する記事を探して皆様に紹介できればと思います。

①タイトル
『美術商が語る思い出の数寄者』

②著者・編者
筒井紘一

③出版社
淡交社

④出版年月
2015年4月

⑤サイズ
A5版

⑥頁数
271頁

⑦目次
思い出の数寄者、ゆかりの逸品
はじめに
 近代数寄者の茶を知る 筒井紘一
美術商が語る、思い出の数寄者
 第一回 池内克哉
 第二回 赤坂政次
 第三回 谷村良治
 第四回 三沢茂
 第五回 田中昭光
 第六回 北川得生
 第七回 野崎博
 第八回 宮島格三
 第九回 飯田兼光
 第十回 柳孝
 第十一回 栗原俊太郎
 第十二回 関谷徳衛
 第十三回 柳重彦
 第十四回 瀬津吉平
座談会 大師会の「これまで」と「これから」
 根津公一・鈴木皓詞・飯田國宏 司会/筒井紘一
美術商に聞く、近代の茶道具移動史
 近代の数寄者と道具の移動
 東京/飯田國宏
 大阪/戸田鍾之助
 京都/赤坂政次
 名古屋/永坂知久
 金沢/谷村庄一
おもな人物・用語解説
初出一覧

イラスト:きーろ様(Twitter*@ki_ro_iroiro)

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