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世界救世教の「顧問」問題

論考
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今回のテーマは「世界救世教の「顧問」問題」です。
(※長くて文字ばかりですいません)

「顧問」という役職に聞きなれない方が多いと思いますが、
それもそのはずでして、現在は世界救世教には存在しない役職です。

岡田茂吉没後の世界救世教のトップは「教主」でして、
教団の代表役員が「管長※」という体制が現在も続きます。
(※1970年以降は「総長」、2000年以降は再び「管長」)

「顧問」問題は先行研究でも世界救世教における癌として取り扱われてます。

 「教団の外部から入ってきた顧問という存在に教団本部の人事や財政までも侵される」
 (『中外日報』1986年9月5日)

 「いずれにせよ、問題解決のために新たな問題の火種を持ち込むという悪循環となっている」
 (※三好康之の顧問就任に関し)
 (隈元正樹『療術から宗教へー世界救世教の教団組織論的研究―』(ハーベスト社、2018年)、P.120)

一方で、そもそも岡田茂吉自身も「顧問」であった時代もあり、
ここでいう「顧問」問題とは「「外部招聘」かつ「専横的」であった「顧問」」
の問題と定義しておきます。

 「日本観音教団では、茂吉が顧問、渋井が主管にそれぞれ就任した。
  茂吉が主管ではなく「顧問」であることに注意されたい
  (隈元正樹『療術から宗教へー世界救世教の教団組織論的研究―』(ハーベスト社、2018年)、P.85)

『澁井嘉丸文書(未修正版)』(私家版、出版年不詳)の「顧問の変遷」(平成六年十一月)に
「顧問」問題の悪い部分について、その実態が記されていますので一部抜粋します。

 「私の知る限りのこの教団位、外部勢力によって支配されていた教団も珍しい」
 「本教では本来裏の立場であるべき人が、顧問として教団の表に出て来て、
  一般社会では考えられない程実権を握り、教団を運営するという事が起きていた」
 「当時は顧問の了解が得られないとお業務計画も予算も役員会を通らず、
  当然事業等は一切出来なかった」
 「多くの人々の協力により顧問の追放は一応成功し、役員間において二度と
  顧問の様な外部の人をいれることはしないと誓いあったのであるが、
  一年も過ぎぬうちに又、外部の人を頼みにせざるを得なくなるという状況に追い込まれ」
 「しかも更に強力な人に依頼した為に、前より内部に踏み込んだ立場で教団に関与」

一方で、同書では「顧問」の良い部分もあったとしていますのでそちらも紹介します。

 「顧問の在職中はその横暴さえ我慢していれば教団は外部から起こる事件は
  大抵は顧問が処理し、教団内部は一応平穏であった」
 「各役員並びに教会長の非常識な言動が抑制され、また信徒が執行部に
  直訴しても取り上げてもらえないことも、顧問に直接話をして
  その内容が必要な事ならば、直ぐ実行してもらえた」
 「すなわち役員に対する目付と、信徒の教団にたいする苦情受付の立場でもあった」

急成長した新宗教教団のためトラブルも絶えなかったと想像されますが、
現在であれば警察や自衛隊のOBを招聘して対応すべきところを対策を誤った感が否めませんね。。。

同書では「教団に影響を与えたと思われる顧問の方は表題の中からは堀川、三好、松本の三氏であろう」
としていますので、その三名について簡単に紹介しておきます。
なお、同書の著者・渋井嘉丸氏は堀川辰吉郎に個人的な恩義を感じていたため、
同氏に対しては「前述した様な後の顧問とは大変に違い本格的な顧問であり、
後の顧問と違い教団の行政に直接は一切タッチしてない
」と記しています。

①堀川辰吉郎
1891年生~1966年没。奇想天外な人物で一言では表現できないため、
ウィキペディアなどで各自ご確認頂けますと幸いです…。
ちなみに1962~63年頃まで教団が保有する東山荘(熱海)に居住していて、
渋井嘉丸氏が訪問した翌日に退去し教団との関係が無くなったそうです。

②三好康之
元陸軍将校で1952年頃から教団と関係し、1957年に顧問に就任しました。
顧問就任の経緯は法難事件説と前顧問(堀川)とのトラブル説があります。
1970年に管長の川合輝明が三好顧問を退陣に追い込みますが、
三好は『世界救世教の実態―医療拒否とその裏面』を出版し反撃、
教団は仲裁のため次項の松本明重を外事対策委員長として招聘しました。

③松本明重
ウィキペディアなどの肩書では「右翼活動家」となっています…。
教団での肩書は「顧問」ではなく「外事対策委員長」ですが、
外部の人間にも関わらず教団内で権力をふるったため同列で取り扱われます。
別の宗教法人を設立したため1980年に辞任(平安教団事件、Wikipediaより)、
ちなみに連座して川合輝明も1982年に総長を辞任しています。

松本は日本民主同志会を結成し戦没者慰霊碑の建立を行ったとされます。
沖縄の慰霊碑「青丘之塔碑」の添碑には、松本が詠んだ歌が刻まれ、
建立協賛者芳名には世界救世教、建立委員には教団役員の名が連なっています
(戦争記念物アーカイブより)

■顧問退任後の教団

松本昭重辞任後の教団ですが、必要悪の「顧問」が無くなった反動か、
「6億円株式投資疑惑(1984年)」「ダ・ヴィンチ絵画問題(1986年)」
「救世会館占拠事件(1986年)」「松本康嗣総長破門(1989年)」
と泥沼化、「新生派」「再建派」「護持派」の3派分裂へとつながります。
(3派分裂から被包括法人3教団設立につきましては過去ブログをご参照ください)

イラスト:きーろ様(Twitter*@ki_ro_iroiro)

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