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世界救世教いづのめ教団YouTube 2023年9月4日三代教主御命日祭 中川賢治相談役の挨拶文から紐解く教団史について

論考
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こんにちは、HIROROです。

昨日アップロードされました、世界救世教いづのめ教団のYouTubeですが、
大変興味深い内容でしたので、概要についてまとめてみました。


https://www.youtube.com/watch?v=EgrOtW1c92E

こちらは中川相談役が杉原理事長から三代様の思い出を話してほしいと依頼され、
三代様からいただいた「和」のご教導について教団史を交えてお話しされた内容です。
とても貴重な内容で、将来的には教団史を振り返る重要な史料となりそうですので
備忘として記載・記録しておきます。

・中川氏は元々離脱した教会(秀明教会)の一信徒だった
・三代様との出会いは昭和46年頃、京都国際会議場で初めて拝顔した
・その後、中川氏は外事対策委員長(松本明重)の元で専従となった
・外事対策委員長宅の応接間に三代様の夫・藤枝真和氏の「わび状」が額に飾られていたのを見て驚愕した
 (詫び状:離脱教会を裏から支援したこと、教主を惑わせ、情報操作をしたことについて)
・幹部会で三代様がお詫びをされたと聞きショックを受けた
・昭和59年5月渡邉哲男氏と二人で「正常化委員会」を立ち上げた
・新生(いづのめ教団)は当時の弁護士(木川統一郎氏)の勧めで教主中心を打ち出した
・三派分裂騒動に三代様を巻き込むこととなり、結果宗家をはじめ三代様は再建(東方之光)に行かれた
・そのため新生は教主不在の教団となってしまったが、教主中心を訴え信徒を守ろうとした
・しかし後年この教主中心が独り歩きし明主様信仰の道から離れてしまったことに責任を感じ深くお詫びする
・三派分裂騒動の和解の発端は三代様のご意志とお言葉だった
・平成9年に新生(いづのめ教団)の裁判での勝訴が見えてきていた中で、
 新生の弁護士団は、勝訴を前提に教主不在の教団規則の作成に取り掛かっていたが、
 教団的コンセンサスを得て三代様の教主としてのご意向を伺おうと取り組んだ
・当時の下稲葉耕吉法務大臣が三代様の家庭の相談にのっていたこと、
 中川氏は下稲葉氏の選挙責任者・後援会長だったことより、下稲葉氏を交えてホテルオークラにて三代様と面会した
・裁判では新生(いづのめ教団)が勝訴する旨を説明、また新生に帰ってきてほしいと伝えた
・三代様からは「裁判での結論は支持しません」「どうして話し合って解決できないのですか」
 「大同和平をしてください、それが明主様の願いです」とのご教導を賜った
・ご教導に基づき新生(いづのめ教団)は和解に応じることとなり、
 新生(いづのめ教団)からは渡邉(哲男)さん、中居(林)さん、再建は川合(輝明or範典)さん、山田(登)さんが就任し、
 下稲葉氏と中川氏が仲介役の立会人として和解の取り組みが始まった
・当時、再建(東方之光)は四代が就任していたため、和解するには分裂前の三代様に戻られるのが前提と話し合いを始めた
・色々な問題があったが平成9年12月23日、三代様は三代教主として救世会館の信徒の前に立った
・平成12年(10年か?)に新生(いづのめ教団)・再建(東方之光)双方合意の上で四代教主が樹立、三代様はMOA美術文化財団の理事長に就任
・いづのめ教団は渡辺体制となり役員就任の要請があったが、当時のMOA美術館は東方之光の職員ばかりだったので、
 三代様を一人にはできないとお断りし、中川氏はMOA財団の常務理事に就任、5年間補佐を務めた
・その頃、いづのめ教団は吉岡庸治美術館長を通じて三代様の協力もいただき、平安郷の整備を実施、三代様からは離脱教団も参拝できるような聖地としてほしいとのご意見をいただいた
・平成18年に中川氏は教団を退職せざるを得ない事態となった
・四代教主が教主の権限を超えていづのめ教団の人事に介入してきたが中川氏は反対したため反教主として解任された
・三代様は美術館の相談役として残るように配慮したがこちらもいづのめ教団の執行部に反対され実現できなかった
・それから12年が過ぎ、四代教主との現在の教団の間で教団浄化が起こり、いづのめ教団の小林前理事長、中井相談役、
 包括教団の長澤管長、東方之光の山田相談役、志賀相談役から教団復帰の要請があり、平安郷の門番なら復職しましょうと受け入れた
・また包括教団と美術館の相談役にも就任した
・三代様の「和」の精神を受け継ぎ、平安郷では離脱教団と「大和心の会」を設立、他教団の参拝や奉仕を受け入れている

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