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岡田茂吉と大黒様

論考
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こんにちは、HIROROです。

今回は久しぶりの論考です。
先日、MOA健康生活館はんだ〜和・やわらぎ〜を訪れた際、
展示されている大黒様の写真を撮って別の場所でアップしましたところ、
なぜ大黒様をお祀りするかご質問を頂きましたので簡潔にまとめてみました。

■ポイント
①岡田茂吉は立教初期から大黒様とご縁があった
②特に旧・五六七会(日本五六七教、会長:渋井総斎)で多く祀っていた
③岡田茂吉没後は徐々に衰退していった
補足:大黒様のお祀りの仕方

それでは順番にみていきたいと思います。

①岡田茂吉は立教初期から大黒様とご縁があった
岡田茂吉が大日本観音会を立教する前の昭和8年(1933年)頃、
ある銀行員が大黒様を持ってきて以降、赤字が無くなったので、
それを機に色々と集めるようになった
と後に回顧しています。
この大黒様は文久年間(1861~1864年)に制作されたものでした。
それとは別に等身大の大黒様も古道具屋から手に入れまして、
こちらは豊臣時代(400~500年前)に制作されたもので、
「みろく大黒天」と名付けて、信徒もお祀りしていたそうです。

 私が大黒様をお祀りし出したのは大森時代、ちょうど不景気な時代でもあり、
 毎月赤字であった。こっちは懐も淋しくてやりきれなかった。ところがある銀行員が
 大黒様を持ってきていらないかと言うので、私も気に入って祀り出した。
 その像の裏には文久何年とか書いてあった。するとその月から赤字がなくなってしまった。
 これはいいというわけで、それからは大黒様を何種類も集めましたよ。
 (『岡田茂吉全集』講話篇 第一巻 377頁)

 以前私が宗教人となった最初のころ毎月赤字が続いたことがあった。
 するとある銀行員が大黒天像を持ってきてくれたのでそれを飾ったところ、
 その月以来黒字が続くようになったので、私は興味を持ち大黒天像を集め、
 一時は五〇くらいもあったが懇望されるまま人に与えたのでいまはほとんどない。
 その後特別大きい大黒様が手に入ってからは予想外に金が入るようになったのである。
 (『岡田茂吉全集』講話篇 第三巻 20頁)

 麻布(青山)高樹町の或道具屋に等身大の素晴しい大黒様があるとの報告で、
 早速私は見に行った処、成程時代といい、作といい実にいい、売るかと聞いた処、
 之は売物ではない自分が信仰しているのだから勘弁してくれろとと言うのでやむなく帰った。
 それが十二月の半頃であった。すると面白い事には、大晦日の日、道具屋から電話がかかった。
 「先日の大黒様はお譲りしてもいいが、思召があればすぐにお届けをする。」というので、
 私は欣喜雀躍した。その晩自動車で届けられ、早速御神前へ安置した。
 その時の道具屋の話が面白い。「先生が御覧になった数日後夢をみた。
 それは大黒様が紫の雲に乗って自分の家からお出かけになったので、
 眼がさめてから、これはもう自分との縁は切れたものと思ったが、
 未だなかなか思い切れなかった。処が今日の大晦日はどうしても追つかないので、
 手放す事になったのである。」という。私は、「いくらか。」と訊くと、
 「そういう訳だから幾らとはいえない。包金で結構だ。」というので、
 私は物価の安い其頃であったから、三百円包んでやったのである。
 処が彼は帰りがけに哀惜の情禁じ難いとみえ、大黒様にすがりついて、
 ボロボロ涙をこぼしていた、其事あって以来収入が俄然として
 増して来たという事実は、全く大黒様のおかげとしか思えないのである。
 お名前は、「みろく大黒天」とつけた。麹町時代、玉川時代来た人は
 よく知っている筈である。此大黒様を写真に写した事があるが、
 其際はっきり円光が表われたので、当時信者の乞いにより数百枚頒布したのである。
 これでみても普通の大黒様ではない事が分る。製作年代は豊臣時代と思われ実に名作である。
 (『岡田茂吉全集』著述篇 第六巻 361~362頁)

②特に旧・五六七会(日本五六七教、会長:渋井総斎)で多く祀っていた
岡田茂吉の高弟の一人で五六七会を主宰してました渋井総斎氏は
(1948年に日本観音教団から日本五六七教として分離独立、1950年に世界救世(メシヤ)教に再統合)
特に大黒様を信仰していたそうで、当時岡田茂吉がインタビューに答えていますが、
そのインタビュアーの方も「五六七教会では大黒様を祀っておられますが」と
五六七教会の独自の信仰と捉えるほど熱心だったようです。
なお、インタビューの中で岡田茂吉は大黒様をお祀りしているのは
五六七教会だけではないと訂正しています。

 この前渋井が大きなのを作って開眼してくれと言ってトラックで持ってきました。
 男四人でやっとかつぐんですよ。そのためか渋井の所はバカに金が入る。
 一月二月なんかたいしたもので、人に話しても信じられないくらいです。
 (『岡田茂吉全集』講話篇 第一巻 377~378頁)

 ——五六七会というのとはどういう関係でしょうか。
 観音教団と二つになっているんです。ま、陰陽ですね。
 ——五六七教会では大黒様を祀っておられましたが……
 いや、五六七教会だけじゃなく、だれでも大黒様を持ってますよ。
 ——どういうわけでしょうか?
 あれはね、私は昔毎月赤字が続いたことがあったんです。
 そのときある人から大黒様をもらったので、観音様の前に置いたところ、
 その月から赤字がなくなってしまったんです。で、私はこれを不思議だったわけで、
 それからだんだん集めるようになって、一頃は五〇くらい集まりましたよ。
 (笑声)……とにかく、大黒様を祀ると金が入ってくるんですよ。
 ——最初のはどんな大黒様だったのですか。
 あたりまえの大黒様です。裏に文久何年とか彫ってありました。
 (『岡田茂吉全集』講話篇 第二巻 372~373頁)

 その大黒様を爆発的に拡め、普及させたのは渋井総斎であった。
 総斎の大黒様への信仰がそのまま多くの信徒に伝わり、
 その授けた大黒様の数は数千体あるいは万余体になる。
 戦後記録的に発展した本教の信徒の七、八割は渋井総斎が
 主宰する五六七会所属であった。当時、信徒の大多数は
 明主様のご直筆のご書体をいただき、また希望する人には
 大黒様も授けお祭りしたのである。現在古い信徒の人々は
 全てといっていいぐらいに大黒様をお祭りしている。
 そのような五六七会の発展状況をみて、他の会派の
 専従・信徒たちも大黒様を祭るようになった。
 (渋井嘉丸『澁井嘉丸文書(公式版)』(私家版、出版年不詳) 85頁)

③岡田茂吉没後は徐々に衰退していった
もともと大黒様をお祀りすることは教団としてオフィシャルなものではなく、
岡田茂吉没後は徐々に衰退していったようです。
渋井嘉丸氏は「大黒様は教団方針として一切祭ることを禁止された」とも記しています。
なお、この渋井嘉丸氏は渋井総斎氏の子でして、世界救世教で要職を歴任するも、
晩年は教団と距離を置いたようですので、記載内容につきましては吟味が必要です。
一方で、今も教団施設やMOAセンターには、御神前ではないものの、
大黒様が安置されていますので、その信仰が全く無くなったわけではなさそうです。

 ところが法難により五六七会が解散に追い込まれ、
 教団組織が一変した後に思想的にも大変化が起こり、
 父の今日までの御神業が間違っていたとされ、
 教団の一部から排斥される状況になった。
 そして父の尊崇していた大黒様は教団方針として
 一切祭ることを禁止された。父の姿と同様に、
 教団、教会、信徒の家々から明主様のご開眼の
 大黒様は消えていったのである。
 (渋井嘉丸『澁井嘉丸文書(公式版)』(私家版、出版年不詳) 91頁)

補足:大黒様のお祀りの仕方
さいごに、岡田茂吉が語っていた大黒様のお祀りの方法につきまして
数点とりあげて結びとしたいと思います。
観音様より位が低いので向かって右側(観音様の左側)に置くそうです。

 大黒様は向かって右、すなわち光明如来様の左へ置くのが本当である
 (『岡田茂吉全集』講話篇 第三巻 500頁)

 大黒様は大きいほうがよい。小さいのが数あるより大きいの一つのほうがよい。
 (『岡田茂吉全集』講話篇 第一巻 384頁)

 ——観音様に毎朝食事を供えます場合、大黒様にもお供えすべきでしょうか。
 大黒様にもお供えしたらよい。しかし観音様より簡略にせねばいけない。
 (『岡田茂吉全集』講話篇 第一巻 444頁)

 本当は大黒さんを床の間にはまずいんですがね。違い棚が良い。
 大黒さんと観音さんは、右、左ではちょっとまずい、
 位から言うと、大黒さんはずっと下ですからね。
 家来と同列ということは本当じゃないんですね。
 (『岡田茂吉全集』講話篇 第四巻 236~237頁)

イラスト:きーろ様(Twitter*@ki_ro_iroiro)

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